はじめに

フリーメイスンは世界最古、最大の友愛団体で、グランド・ロッジと言う制度のもとに活動しています。この制度が発足したのは1717年英国のロンドンで、日本でいえば江戸時代中期の享保2年、徳川吉宗の時代です。ロンドンにあった4つのロッジが集まり、グランド・ロッジ(本部)を創設しました。その結果、それまで個々に活動していたロッジが次第にこのグランド・ロッジのもとに集まり、グランド・ロッジの憲章に基づいて運営されるようになりました。イングランドで創設された世界最初のグランド・ロッジにつづき、1725年頃にアイルランドで、1736年にはスコットランドにグランド・ロッジが出来ました。この様にイギリス諸島で始まったフリーメイスンはその後世界各地へと広がっていきました。現在世界の多くの国々にメイスン団体が存在しており、会員の総数は数百万人と推定されています。
 

日本にきた最初のメイスン

日本におけるフリーメイスンの歴史は江戸時代後期に始まります。江戸時代は鎖国によって外国との交流が厳しく制限されましたが、オランダは日本との貿易をつづけていました。江戸時代に来日したオランダ人の中にティチング(Issac Titsingh)という人がいました。アムステルダムの生まれで、オランダの東インド会社に入社し、1772年にバタビア(今のジャカルタ)でメイスン会員になりました。彼は1779年にかけて3度来日し、長崎のオランダ商館長を務め、その間、高官や蘭学者たちと親交を持ちました。彼の「日本風俗図誌」その他の日本関連の著書は18世紀後半の日本人と日本の風俗に関する貴重な資料となっています。現在、このオランダ人ティチングが最初に来日したメイスンと考えられています。

 

鎖国の終わり-開国

江戸時代も末期となり、徳川幕府は諸外国と条約を結び開国しましたが、条約は治外法権を含む不平等条約で、また開国の結果インフレーションが起こり庶民の生活は苦しくなりました。民衆、特に武士階級の間に尊皇攘夷の風潮が広がり、日本に住む外国人を襲撃する者も現れ、この風潮は1850年後半から1860年前半にかけて激しくなり、諸外国が幕府に厳しく抗議した結果、1863年に幕府は英国とフランスの軍隊の横浜への駐屯に同意することになりました。

  日本最初のロッジ

フリーメイスンのロッジが日本に開設されたのはこの頃です。1864年英国の第20連隊が横浜に上陸しましたが、その中には軍人たちによって作られたアイルランド・グランド・ロッジ傘下の「スフインクス・ロッジNo.263」がありました。このロッジは1865年1月27日に横浜において最初の集会を開きました。これが記録として残っている日本における最初のフリーメイスンの集会です。この連隊が横浜に駐屯中に開いた集会には横浜在住の外国人のメイスン会員も出席しました。しかし、このロッジは駐屯軍のロッジであったため日本国内で長期に活動することはできませんでした。従って横浜在住の民間人のメイスンは自分たちのロッジを設立するため、イングランドのユナイテッド・グランド・ロッジに新しいロッジの開設を申請しました。そして明治維新の2年前の1866年に日本最初の「横浜ロッジNo.1092」が設立されました。その後、第二次大戦前までに日本国内にはこの他にイングランド系ロッジが五つとスコットランド系が三つ設立されました。

ロッジ活動の条件

明治32年(1899)になると治外法権が廃止され、政府は日本人を会員としないことと、あまり派手な活動を行わないことを条件に日本におけるメイスン活動を認めました。当時の在日外国人のメイスンの中には日本の近代化に貢献した人々が数多くいました。例えば、神戸の開発に貢献したドイツ人商人フィッシャー(E. Fischer)、外交官で文学者であり、日本と日本文化を西欧に紹介した英国人アストン(William G. Aston)、大阪造幣局長をつとめた英国人キンダー(Thomas W. Kinder)、英国人ジャーナリストで英字新聞「ジャパン・ガゼット」、邦字新聞「日新真事誌」を創刊し、「ヤング・ジャパン」を執筆したブラック(John R. Black)、通信技術を紹介、指導した英国人電信技士ストーン(William H. Stone)、東大その他で教鞭をとり、後にゲーテ座、フランス領事館その他を設計したフランス人建築家サルダ(Paul Sarda)、英国人造船技師ハンター(Edwrd H. Hunter)、ベネチア生まれで英国国籍の写真家ベアト(Felix Beato)やアメリカ人医師エルドリッジ(Stuart Eldridge)などです。いずれにしても当時の日本におけるメイスンはすべて外国人でした。

戦前メイスン会員となった日本人

一方、当時海外においてフリーメイスンに入会した日本人がいました。江戸時代末期から明治時代に活躍した学者、西周津田真道は文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダのライデン大学でメイスン会員であったフィッセリング教授(Simon Vissering)のもとで学びました。西は元治元年(1864)10月、つづいて津田は11月にライデンの「ラ・ベルトゥ・ロッジNo.7」に入会しました。また明治時代の外交官であった林董は明治33年(1900)から明治39年(1906)まで英国に駐在し、その間にメイスンとなっています。彼は明治35年(1902)の日英同盟条約に日本代表として調印しました。そしてその翌年の明治36年(1903)2月にロンドンの「エンパイヤー・ロッジNo.2108」に入会し、同年3月には第二階級に進級、5月に第三階級に昇級し、翌年の1月にはロッジの総責任者であるマスターに就任しました。このように短期間で彼がロッジのマスターになったのは、外交官としての職務上近い将来、任地が変わる可能性があったのと職務の重要性を考慮して、ロッジの所属会員が彼をロッジのマスターに選出したからです。彼は明治38年(1905)に日本の初代英国大使となりました。またオランダや英国以外にも、米国やフィリピンなどで戦前にメイスンになった日本人がいました。

戦争勃発

昭和初期(1930年代)になると、満州事変、上海事変をへて昭和12年(1937)に日中戦争が始まり、軍国主義者たちによるフリーメイスンの締め付けが化され、昭和15年(1940)頃から国家主導による反メイスン運動は厳しさを増し、昭和16年(1941)の開戦とともに国内にあったすべてのロッジは活動を中止せざるを得なくなりました。

フリーメイスンは過去においてその民主主義的理念のために、ファシズム、ナチズムなどの国家主義、全体主義や社会主義、共産主義など、その理念と相容れない体制下において弾圧を受けたり、禁止されたりしました。その一例がナチス・ドイツによるユダヤ人とフリーメイスンへの弾圧です。しかし、フリーメイスンとユダヤ人の間には直接の関係はありません。グランド・ロッジ制度が発足したイングランドでは、初期の段階において会員はすべてキリスト教徒でしたが、後に、神の存在を信じる限り宗教は問わないことになり、キリスト教以外の信仰を持つ人々も入会できるようになりました。戦前の日本はナチスと同盟関係にあったので、ナチスの反ユダヤ、反フリーメイスンの印刷物が多く輸入され、日本語に翻訳されました。また今日でも時折、当時とほぼ同じような見当違いな内容のフリーメイスン関係書籍が出版されていることは誠に遺憾です。

戦後

戦後になってメイスン活動が再開され、戦前からあったロッジの中でイングランド系の一つとスコットランド系の二つのロッジが活動を再開しました。フィリピン・グランド・ロッジ傘下に占領軍の関係者を中心として日本国内でロッジの開設が始まり、昭和22年(1947)から昭和31年(1956)の10年間に16のロッジが設立されました。占領下の日本において、メイスン会員であった連合軍総司令官のマッカーサー元帥は民主主義精神を基本とするフリーメイスンの理念を積極的に支持しました。その結果、日本人の参加が可能となり、昭和25年(1950)には日本で初めて5名の国会議員を含む7名の日本人が入会しました。昭和32年(1957)3月、日本で活動していたフィリッピン傘下ロッジのうち、15のロッジが日本グランド・ロッジを設立しました。その後会員数は着実に増え、昭和47年(1972)には傘下ロッジの会員総数は4786名になりましたが、それ以降は減少傾向となり、現在にいたっております。

ちなみに、全世界のフリーメイスンを統括する総本部はありません。グランド・ロッジ制度のもとでは本部であるグランド・ロッジは原則として一つの国に一つ、米国及びいくつかの大きな国の場合には一つの州に一つ存在します。これらのグランド・ロッジではそれぞれの間で友好関係を結び、互いに対等の立場で相互交流を行っています。日本グランド・ロッジでは、現在世界中の150以上のグランド・ロッジと友好関係を持っています。

我国には日本グランド・ロッジ傘下以外のロッジもいくつか存在します。イングランド系ロッジが一つ、スコットランド系が二つ、フィリピン系が二つ、それに戦前上海で設立され昭和27年(1952)に東京で活動を再開した米国系(マサチューセッツ州)ロッジが一つあります。これらはいずれも日本グランド・ロッジが昭和32年(1957)に設立された時点ですでに日本で活動していたロッジです。この他に平成10年(1996)に日本グランド・ロッジと友好関係を結んだ米国ワシントン州のプリンス・ホール・グランド・ロッジ傘下のロッジもいくつか日本国内で活動を行っています。